稲垣こうじ
昭和50年町田市原町田生まれ
・玉川学園(小)→ 慶應義塾(中・高・医学部)
・平成12年 医師免許取得
・慶應義塾大学病院他、各地域拠点病院で勤務
・平成25年 稲垣耳鼻咽喉科医院3代目院長就任
・令和元年〜7年 町田市医師会理事(3期)
町田に根を張り、世界へ視野を広げた医師一族
私は昭和50年に4人兄弟の3番目、次男として町田で生まれました。原町田にある実家は昭和17年に祖父が開業した耳鼻咽喉科医院です。祖父は一開業医でありながら、後に東京医科大学理事長を務めたように、内に留まらない、広い視野を持った人でした。そんな祖父を支えるために、父はしっかりと医院を守り、私達兄弟4人を育ててくれました。因みに、父も4人兄弟であり、一番上の姉(稲垣美穂子)は昔女優をやっていたので、年配の方はご存じかもしれません。私の兄弟は一番上の姉と、男兄弟3人。特に申し合わせたことはありませんが、男兄弟3人とも父と同じ耳鼻咽喉科医になりました。母の実家も明治時代から続く医者の家系 で、地元は鶴川の真光寺です。その昔、白洲次郎さん、正子さん夫婦が診察に来ていたと、母から聞いたことがあります。両親とも町田出身のため、幼少期から正月やお盆に帰省するという感覚はなく、普段からよく祖父母の家に遊びに行っていました。

町田の医療を、次の時代へ
そして平成25年、父の病気療養に合わせて故郷の町田に戻り、3代目院長として稲垣耳鼻咽喉科医院を継承しました。継承後は時代に即したDX化を進めるとともに、令和元年に老朽化した医院を建て替えました。また建て替えを機に、働く子育て世代のサポートとして病児保育室を併設しました。日々の診療では、老若男女、本当に多様な患者さんと毎日100人以上接してきました。おひとりおひとり、病気も違えば生活のバックグランドも違いますが、どのような方に対しても先入観を持たず、常にフラットな気持ちで接する姿勢が自然と身に付いたと思います。
診療の傍ら、地域医療への貢献として医師会の理事を3期6年間務めました。ちょうどコロナ禍を理事として経験し、保健所をはじめ行政との連携の重要性を 身に沁みて感じました。最近では厚生労働省高齢者難聴研究班の委員を経て、高齢者の認知症予防にも重要な補聴器の購入費助成を町田市に要請し、今年4月より施行されました。

PROFILE
剣道で磨いた“逃げない姿勢”を胸に、耳鼻咽喉科の道へ
幼稚園は両親と同じ原町田幼稚園に通い、小学校は玉川学園小学部に入学しました。玉川で過ごした6年間で学んだ「全人教育」は、今でも私の考え方、行動の礎となっています。中学からは慶應義塾に進学し、そこから10年間日吉に通いました。大学は医学部に進学しましたが、部活動は中学から一貫して剣道部に所属していました。大学では体育会剣道部と医学部剣道部を兼部し、剣道三昧の学生生活でした。早慶戦や医学部全国大会での優勝など、学生時代の思い出は剣道一色です。慶應義塾では自ら考えて行動すること、人との繋がりの大切さを学び、剣道からは目の前の相手(問題)から決して「逃げない姿勢」を学びました。この「逃げない姿勢」は患者さんと一対一で向き合う医師の仕事にも大変役立ちました。
平成12年に医学部を卒業し、医師となりました。専門は耳鼻咽喉科を選択し、慶應義塾大学病院や宇都宮、平塚、相模原など地域の拠点病院で研修を積み、耳鼻咽喉科専門医としての技術を磨きました。平成22年からは横浜市立市民病院の診療科長として、後輩医師の指導や病院経営について学ぶ貴重な経験をさせていただきました。
挑戦の舞台は、ふるさと町田へ
また私の性格は祖父譲りなのか、内に留まることを好まず、様々な団体にも所属しました。学生時代に熱中した剣道では、母校の剣道部監督や学生剣道連盟の役員を10年以上務めました。地元町田では、青年会議所、商工会議所、三田会(慶應同窓会)、ロータリークラブ等、多業種の方々との交流を深めました。特に現在も所属する商工会議所青年部では、政策提言委員会委員長として、仲間と共に作り上げた提言書を町田市に提出しました。そしてこの提言を実現させなければ、と強く思うようになりました。
ちょうど「昭和100年」となる今年50歳を迎え、新たなステージへの挑戦を決断しました。これまでの経験を活かし、愛する町田のために出来ることを実践してゆきたいと思います。



